−バート・I・ゴードン『サイクロップス』『巨人の村』−

 欧米の怪獣映画といえば人形アニメによるものが多く、日本のゴジラなど、ぬいぐるみの怪獣はけっこう(一部のマニアを除いて)ケチョンケチョンにけなされることが多い。実物大のスケールのプロップを作ったりすると、その動きの悪さが起因して笑いものにされる場合が多々ある。まして、ただの生き物に装飾を施したり、あるいはそのまま映しただけのフィルムを編集して、さも巨大なトカゲや蜘蛛が暴れているように見せかけた映画など、もはやインチキ映画扱いである。

 しかしここで述べるバート・I・ゴードン監督、別名Mr.BIGはそれらの手法しか用いなかったにも関わらず、ある種のカルトな人気を博している、稀有な監督である。彼の映画に登場するモンスターを端的に言うならば、「本物」の一言に尽きる。確かに部分的に縫いぐるみややラージスケールモデルなどを使いはするが、殆どは本物の虫をミニチュアの中でそのまま走らせたり、撮影したフィルムをそのまま人物のフィルムに荒っぽく合成する手法なのである。それ故映画のスチールではリアルに感じるのだが(本物だから当たり前)、フィルムを見ると演出もクソもないモンスターの動きに唖然としてしまう人が多いのである。

 1922年に生まれたゴードンは、55年の『King Dinosaur』で監督デビュー。映画には、粉飾を施した本物のトカゲ(しかも『紀元前百万年』の流用)やアルマジロ、亀やマンモス、蟻が登場するだけで、巨大蟻などは合成が下手で半透明のまま歩き回る。一応特殊効果はハワード・A・アンダーソン社が担当しているが、ここでゴードン監督は教訓を得る。

@巨大怪獣は「本物」をそのまま合成すれば良い。

Aそれだけならば、俺にだってできる。

B以上を満たせば、安く映画が撮れる。

 デビュー作の反面教師の教えをそのまま人生訓としてしまったゴードンは、57年から監督・製作・脚本・特殊効果をこなす、天才的な多芸ぶりをアピールする作品を、女房のフローラにも手伝わせて量産し始める。そしてそのどれもが、生き物がそのまんま巨大生物として登場する映画なのである。

 まず、巨大なバッタの群が出現する『Begining of the End』(57)。ここでゴードンは、テキサスの核実験で巨大化したバッタを登場させる。ここでゴードンは、早くも己の手法を確立する。人間の映るフィルムに、動き回るバッタのフィルムをそのまま合成。輪郭のギザギザした巨大バッタが、科学者(ピーター・グレイブス)や軍隊に襲いかかる。しかしこのバッタ、キリキリキリキリ、鳴き声がうるさい。襲われる前に気づけよ。そして巨大化したバッタ軍団は、軍隊の戦車や火炎放射器攻撃をものともせず、テキサスの大都会に襲いかかる。ビルにへばりつき、群衆が逃げ惑うメインストリートを闊歩する巨大バッタ! 中でもケッ作なのは、巨大バッタが高層ビルをよじ登るシーン。なんと高層ビルのセットは巨大な写真が用意され、その上を本物のバッタが這い回る! これを映像の魔術と言わず、何と言おう。結局バッタ軍団は、超音波攻撃を浴びて、河にバッタバッタと落ちて溺死する。

 翌58年の『吸血原子蜘蛛(Earth vs the Spider)』は、巨大な蜘蛛が登場。これもただの蜘蛛をセットの中を歩かせたり、合成しただけのものだった。

 しかしゴードンの名を高めたのは、何と言っても巨大人間ものである。

 57年の『The Cyclops』は、行方不明の婚約者を捜す主人公のスーザン含む男女四人がメキシコの山間部を訪れる。そこにはウランの鉱床があり、放射能による様々な巨大生物が登場する(←安易すぎる……)。お約束の巨大トカゲ、巨大ネズミと、それを襲って喰う巨大鷲、巨大蜘蛛……。そして登場する、サイクロプス−−単眼の巨人。顔の右半分が溶けて左目だけをぎょろつかせ、右の口腔を剥き出しにした、日野日出志の漫画に出てくる奇形児のような顔をした巨人は、スーザンが探し求めていた婚約者ブルースの変わり果てた姿だった! 洞窟に逃げ込んだ一行は、必死に獣と化したブルースと対話しようとする。そこに巨大な蛇が登場し、ブルースと死闘が始まる……というか、本物の蛇と腰布一丁のおっさんのダンスが映し出される。まあ、毛利郁子か辺見マリの醜男版と思えば良し。何とかその場を逃れた一行はセスナ機で脱出しようとするが、ブルースの追跡は執拗だ。やむを得ず一行は彼の片目に槍を突き込んで、盲目にしてしまう。ラスト、盲目となって地面にぶっ倒れているブルースに背を向けてセスナが飛び去っていくという、何の救いも無い場面で映画は終わる。

 とにかく腰布一丁の裸で、うなり声をあげて暴れ回る親父のインパクトは、『バグダッドの盗賊』のビンの妖精の比ではない。いびきをかいて横になっている姿も、妙に絵になっている。ここでゴードンは、思ったろう。

C人間ならば、人形アニメーターが不要。

Dトカゲや蜘蛛と違って、こちらの思うとおりに演技させられる。

E巨大化させるなら、人間が一番。

 かくして誕生したのが、ゴードンの代表作である、60フィートのスキンヘッドの巨人、マニング大佐が暴れまくる「Colossal」シリーズである。

 57年の『戦慄!プルトニウム人間(The Amazing Colossal Man)』の冒頭、プルトニウム爆弾の実験場に墜落したセスナ機のパイロットの救出に向かったグレン・マニング大佐(グレン・ランガン)は、爆発に巻き込まれ大量の放射能を浴び、スキンヘッドで火傷に覆われた重度の被爆患者になってしまう。ところが彼の体は凄まじい速度で回復していくばかりか、日に日に数メートルずつ成長し始めたのである! 軍によって秘密裏に隔離されたマニングは、心配する婚約者と共に治療を続ける。しかし60フィートの大きさになったマニングはついに狂い出し、腰布一丁の姿(伸縮する布製で、身長30メートルになっても大丈夫なのだそうだ)で医療施設を逃亡、ラスベガスを歩き回り、町をぶち壊し、女の浴室を覗き、暴れ回る。しかし軍隊によってダムに追い詰められ、集中砲火を浴びたマニングは、水の底へと沈んでしまう。

 本作はアメリカで大ヒットし、翌58年には早くも続編の『巨人獣(War of the Colossal Beast)』が登場。メキシコで巨人が輸送トラックを襲っているとの情報が入り、駆け付けたマニングの妹が見たものは、顔の右半分と脳を破壊されて、よりモンスターらしくなったマニング(ディーン・パーキン)の姿だった。もはや野獣化した彼の耳には、妹の声も届かない。かくしてマニングは捕獲され、そのままアメリカに運ばれ、空港の飛行機格納庫に鎖で拘留される。しかし鎖を引きちぎった彼は、市内に侵入、スクールバスを人質に公園の中に立てこもった。妹の説得にようやく我に返ったマニングは、スクールバスを解放する。ここにいるのは、人間社会とは共存し得ない、しかし心は人間のままの怪物なのだ。マニングは妹の制止する声を聞きながら、高圧電線に触れて自殺する。

 50〜60年代には様々なモンスターが登場する映画が公開されたが、この2作が一際高い印象を持たれているのは、とにもかくにもマニング大佐のキャラクターにあるだろう。

 巨大な半裸の親父が暴れ回るという、今だったらギャグにしかならないような設定と物語(実際スリーマイル島の原発事故直後の『サタデー・ナイト・ライブ』に、大統領が放射能で巨大化するコントがあった)には、子供でもわかる明快さとインパクトがある。

 しかし注目すべき点は、当時多々あった原水爆の恐怖を訴えた反戦映画や、放射能による怪物が登場する映画より一歩踏み込んで、被爆して怪物と化していく主人公の苦悩とそれを取り巻くドラマをきちんと描いた点だ。意外とゴードン自身は硬派かつ先見性に満ちた人間だったのかもしれない。原爆の実験場で被爆し、手足がグロテスクに肥大化したアトミック・ソルジャーの存在が米国内で表面化するのは、はるか後のことである。

 しかしその後ゴードンはしばしお得意の巨大ものから遠ざかり、57年の『縮みゆく人間』の向こうを張った『生きていた人形(Attack of the Puppet People)』(58年)で、彼のポリシー(?)に反して縮小化された人間を描いたのが目立つ程度だった。

 そして62年ゴードンは、誘拐された姫を救出せんと、魔法の剣を持ったジョージ以下6人の騎士が悪の魔法使いに立ち向かうヒロイックファンタジー『魔法の剣(The Magic Sword)』を突如発表。巨大獣人やシャム双生児の兵士が続々と登場し、最後、ぬいぐるみの双頭のドラゴンが登場(ゴードン作品では数少ないオリジナルデザインのモンスター)。なかなかカッコ良くてまともだったが、一歩も歩かない合成のドラゴンのまわりで主人公が一人で大立ち回りするのが、ゴードンらしくて一安心。ついでにこのドラゴン、火炎を鼻の穴から噴き出すのが異様だった。

 しかし60年代に入ってモンスター映画もピークを過ぎ、しだいにただ巨大生物がうろつくだけの映画はあまり製作されなくなっていく。ここでゴードンに、AIPのお偉方が囁いた。

「やっぱり、これからの巨人も、無軌道な若者とゴーゴーダンスだな」。

 という経緯があったかどうかは知らないが、65年の『Village of the Giants』は、ゴードン映画の中でも、脳が腐りきった内容だった。オープニングタイトルは、ゴーゴーをダンスホールで踊る若者の姿が延々と映され、その後も、馬鹿な若者グループ八人が、立ち往生した自動車から降りて、泥の中でゴーゴー、ゴーゴー。五分以上お姐ちゃんのダンスを見させられた後、ようやく映画が本筋に入る。天才少年が、生物を巨大化させる食べ物を発明。猫が、アヒルが、犬が、次々と巨大化する。そして、所変わってダンスホール。突如先ほどの二羽の巨大アヒルが乱入。ロカビリーな音楽にのって踊りまくる……というより、ピアノ線で吊られて振り回されている。周囲の若者もそれに同調。そしてアヒルのダンスが三分以上、延々と続く。そして冒頭のアホタレ八人、巨大化食物を盗み出して無人の劇場でこっそり喰ってしまう。直後、お姐ちゃんのブラジャーが吹き飛び、男のシャツが裂け、八人は巨大化。劇場の大道具の布きれを身にまとい(もちろんビキニとかのツイッギーなスタイル)、パーティ会場に繰り出す。以下、巨人によるゴーゴー・ダンス。ビキニのお姐ちゃんが青年を掴み上げると、自分の胸元に押しつける。お兄ちゃん、巨大な女の上半身(もちろん実物大のセット)の胸の谷間に顔を埋め、ブラジャーの両肩紐に必死でつかまる姿が……うらやましい。そこに保安官がやって来るが、八人は保安官の娘を人質にとって武装解除を要求。町中の銃が取り上げられ、八人は食糧も貢がせる(ただし全部コーラとフライドチキン)。住宅街に繰り出した巨人を拘束しようと、バイクにまたがったお姐ちゃんが投げ縄で男の巨人の足を縛る。スネ毛付きの五メートルはある巨大な足のまわりをバイクで走るお姐ちゃんの勇姿! しかし作戦は失敗。さらに傍若無人に振る舞う八人の前に、先ほどの天才少年が自転車に乗って登場、巨大化薬を無効にする黄色いガスを噴霧しまくる。かくして八人は元に戻り、でかい布きれに身を包んだまま、町の人に追われてほうほうの体で逃げ出す。そして冒頭の泥にはまった自動車の所に戻って来ると、その前を八人のこびとが通り過ぎていくというところで、ジ・エンド。再びゴーゴーの映像が流れてエンドクレジットが流れていくのだった。

 ……終わった。全てが終わった。もはやゴードンの時代は終わったのか? その後オーソン・ウェルズの『ウィッチング(The Witching)』、チャック・コナーズの『マッドボンバー(The Mad Bomber)』といった怪作を撮りつつ消えていくかと思われたゴードンとっつぁん、『ジョーズ』が巻き起こした動物パニック映画ブームに乗って、得意の巨大ものの仕事にありつく。

 それが76年の『巨大生物の島(The Food of the Goods)』である。ちなみにこの作品は「Fang(牙)」というJawsな配給会社の原題(?)に「驚異の映像革命《マテックス808》方式上映」のコピーも勇ましく、テアトル東京のシネラマで公開された。巨大生物の映画は巨大なスクリーンでなんて、シャレにならん。ちなみに本作及び『Village of the Giants』は、H・G・ウェルズの『神々の糧』が原作ということになっているが、この二本を見て原作の物語が想像できる人間は世の中に存在しないといって良い。

 フットボールの選手モーガン(マージョー・ゴートナー)が、夏のバカンスを楽しみに渡った島で、巨大なスズメ蜂に襲われる。モーガンは農場に逃げ込むが、そこで数メートルはある巨大ニワトリ(の上半身のモデル)に襲われる。亭主の農場の留守を守るアイダ・ルピノに会った彼は、農場の地面から突然湧き出したミルクのような液体を投与された家畜が異常成長し、そしてその液体を島中の生物が飲んでいた事を知る。モーガンは5メートルはあるスズメ蜂の巣(ハリボテ)を爆破するが、すでに島内には巨大な鼠の群が跋扈していた。ミニチュアのキャンピングカーに群がって遊ぶ数十匹の本物の鼠の群! さすがゴードン、初志を貫徹する男。モーガンは農場のまわりの鉄柵に電流を流して時間を稼ぐ。ミニチュアの金網に本物の鼠が殺到させられ、ことごとくが本物の電流で火花をあげながらもんどり打つ(涙)! ちなみに人間と鼠の群が柵を挟んで一緒に映る場面は柵の部分で合成されているのが明確で、柵を乗り越えた鼠は宙に消え、そんな半身鼠が数限りなく画面に映る。しかし鼠達はついに柵を突破、農場を包囲した。立て籠もったモーガン達は室内からライフルで応戦。次々と血を流して吹っ飛んでいく本物の鼠達(涙涙)。そして火炎瓶を受ける場面で、火薬で吹き飛ばされる本物の鼠達(涙涙涙)! 一計を案じたモーガンは上流のダムにジープで向かい、ダムを爆破。農場に大量の水が押し寄せ、数十匹の鼠(本物)が無理矢理溺れさせられる様が延々と映され、全てが終わったように見えたが……謎の液体は河川を流れ、乳牛の口に入り、その牛乳が子供達のもとに送り届けられていったのである。

 来るべきコンピュータ特撮時代に逆らうかのごとくローテクで奮戦したこの映画、実は作品自体は面白く仕上がっている。

「わしもまだまだ、やれるわい」

 そう思ったかどうかは知らないが、翌年ゴードンとっつぁんは調子に乗って、『巨大蟻の帝国(Empire of the Ants)』を公開する(日本では『白昼の暴行魔』と二本立て公開)。

 物語はインチキ不動産屋(ジョーン・コリンズ)の招待で、数人の客が半島の別荘地にクルーザーで招待されるところから始まる。ちなみに主役はクルーザーの髭面中年船長、ロバート・ランシング。コリンズが大嘘をこきまくって売ろうとしている土地には、不法投棄された、ドラム缶入りの放射性廃棄物が流れ着き、それを餌にして数千倍に巨大化した蟻達が跋扈していた。出現した蟻は、ゴードンのお家芸! 蟻のクローズアップのフィルムをそのまま画面の半分に貼り付けた、境目がボヤけた、遠近感の無い合成! さらにチョコマカ動かないように、粘着物で固められたり、縛り付けられている蟻の悶える姿が、SMSFX。そしてその合間を縫って、人間に襲いかかる3メートルはある巨大な蟻の縫いぐるみ! 一行は何とか町にたどり着くが、彼等は保安官達に捕らわれ、製糖工場へ連行される。工場の倉庫にはボタ山のような砂糖の山があり、工員達が見つめる中、巨大蟻の群(本物)が文字通り一直線にやって来る。中には反対方向に行こうとする蟻や、一本足で空中に立ち上がる器用な蟻もいて、なかなか演出が凝っている。

 何故彼等は巨大蟻を見て騒がないのか? 一行は工場内の一角のガラス張りのパーティションを見て驚愕する。巨大な女王蟻がフェロモンを吹き付け、次々と町民達を服従させているではないか! もちろん女王蟻(本物)は画面の一角の中で狭そうにのたうち回り、その前に立つ人間に、いかにもなドライアイスの煙がタイミング良くかかるだけだが。しかしランシングは隠し持っていた発煙筒で女王蟻を攻撃! 女王蟻がパニックに陥った為に人間達は我に返り、工場内は大混乱になる。女王蟻は保安官の拳銃によって倒され、巨大蟻の巣くう倉庫を爆破したランシング達は、ボートで町を脱出するのだった。

 ちなみにこの作品、77年の作品である。ルーカスが古典的なスペース・オペラを『スター・ウォーズ』として銀幕に甦らせていた頃、彼が(おそらく)心ときめかせていた監督は、動物パニック映画ブームの余韻に包まれて、巨大生物の映画をまだ撮っていたのである。しかしその古めかしいほどの作りの荒っぽさとワンパターンぶりがゴードン映画の魅力でもあり、慣れると軽蔑より先に温かく見守ってあげたいような気持ちになるから不思議だ。監督・脚本・特撮とトータルで製作に関わるからこそ、それなりに統合感のある破綻の無い水準を保っているというのはさておき、どちらかというと近所のボケ爺さんから戦争中の殊勲話を何度も聞き続けさせられるようなものかもしれない。

   この後ゴードンはシルビア・クリステル主演の『The Big Bet』(85年)などの一般作に走り、巨大生物映画は撮っていない。88年には『巨大生物の島』のまんまパクリでダミアン・リー監督の『ゴッド・フード(After Food of the Gods)』が公開されるが、出来は惨憺たるものであった。ゴードンとっつぁんはきっと思ったことだろう。

「まだまだわしの時代は終わっとらん!」

 40年前の怪獣映画の遺産で、正月興行を未だにしている国に住む者としては、まだまだゴードン作品は過去のものとは感じられないのである。


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