−呪われた活動屋魂、牧口雄二−
女が、来る。栗田ひろみがシャブ中にでもなったような、眼がぎらぎらした女。疲労困憊、雪の中を転げ回り、擦れ違うガキどもに石をぶつけられ、畑で干されている生の大根にかぶりつき、道端に放り捨てられた他人の食い残しにむしゃぶりつく。そして追っ手の姿を見つけ、走り去る。
ドドン、ドドーン。いきなり火山の噴火のフィルムが挿入され、オレンジ色に染まった画面に、タイトルが出る。
「女獄門帳・引き裂かれた尼僧」
牧口監督の作品で最初に観たのは、この映画だった。要するに、足抜けした女郎のおみの(田島はるか)が駆け込んだ、男どもを虐殺しまくる狂気の寺の物語だ。庵主の桂秀尼(折口亜矢)はケシの花を栽培してアヘンを吸い、片や猫、片や蛇を可愛がるレズの女おかじとおつな、怪力無双のデブ女おとく、そして殺した男の肉塊を鍋で煮込み、その汁を啜る寺男の作造(志賀勝)と唖の童女お小夜(佐藤美鈴)。おみのを追っかけてきた、女衒の弥多八(汐路章)と亀(佐藤蛾次郎)。寺の外、一般社会では犯され責められ、殺戮とアヘンの世界にようやく安住の地を見出したかに見えたおみのも、唯一優しくしてくれた隠密(成瀬正)を女達に殺され(布団の上で痙攣する首無し死体! そしてそれを見て仰天したおみのが台所に駆け込んで水を飲もうと柄杓を突っ込んだ水桶の底に、十手をくわえた成瀬の生首!)、弥多八達を味方にして反旗を翻す。おかじとおつなを殺し、作造を斧で叩き殺す。こちらも弥多八が殺され、亀もおとくの巨乳に顔を埋めさせられて母乳によって溺死。炎に包まれる寺の本堂での乱闘の末、おみのはおとくと桂秀尼を殺す。呆然と立ち尽くすおみのの目の前で、突如立ち上がり、崩壊する即身仏のミイラ(監督曰く、「あの中に入っているのは大学生でね。気が弱いんで、こちらの合図を待たずに飛び出しちゃったんだよ。あと三秒遅ければねぇ」)!
あれよあれよのうちに過ぎる70分弱は、低予算でフィルムが余分に使えないということもあるのだろうが、きわどくグロテスクでありながら、極彩色に満ちた悪魔の美しさに満ちたシーンが矢継ぎ早に展開される。庭に咲くケシの赤い花(監督曰く、「ケシの花に見立てたただの花です」)、体中血まみれになって肉塊をバラす作造、そしてアヘンを吸い、開かれた障子の外いっぱいに広がる夕日を浴びてまぐわうおみのと桂秀尼と、狂人の幻想にも似た美しい映像が続く。濃密な、原色の空間はようやく終わるのか。
しかし映画はさらに続く。立ち尽くすおみのを背後から植木バサミで突き殺すお小夜。彼女の脳裏に浮かぶ風景。一面の純白の雪野原で、さらに幼い彼女を連れた桂秀尼が、狩人に襲われている。凌辱を開始する狩人。その腰からナタを奪い、斬りつけるお小夜。怒った狩人はお小夜の体を宙に飛ばし、絞め殺そうとする。少女を守る為に、ナタを拾い、何度も何度も狩人に振り下ろす桂秀尼。スローモーションの静的な回想が終わり、再び炎に包まれた本堂の中に立ち尽くすお小夜。彼女の眼から涙が流れた瞬間、股間から一筋の血が流れる。全てを失い「女」になったお小夜。映画は、一人雪の中旅立つ彼女の姿で終わる。
日本映画の喜劇の作劇に、笑わせて最後に泣かせを入れてジ・エンドというスタイルがある。本作もスタイル的にはそれに似ている。エログロの煽情的なシーンが続いた後だけに、最後の静かな凌辱場面は切ないほどに美しく、陶酔感に満ちている(渡辺岳夫による情緒深いメロディもはまっている)。本作を大井武蔵野館で最初に観た時は、この場面をもう一度観たくて、もう一回、観て帰る羽目になった。最初に観てから十年近く立つのに、いまだにこの場面は脳裏に焼き付き、また映画館にかかってくれ、早く「女獄門帳」を観せてくれという禁断症状を引き起こして苦しめてくれる。まさにアヘンの映画だ。
従来東映のエログロ作品といえば、石井輝男作品と関本郁夫作品が有名だ。拙い私的見解を述べさせていただければ、前者は常に仕掛けとプロットを積極的に提案するダイナミズムに満ち、後者は作品中のキャラクターを丹念に描いて一個の世界を構築することに力を注いでいる。
「女獄門帳」は両者とはまた違う。キワモノとしての娯楽的要素をそつなく盛り込みながら、耽美的な心地よさを引き出そうとしている。良くできたエロ劇画という表現が妥当とは思わないが、少なくとも私のような下品な観客が期待するスプラッター的な要素を散りばめながら、それだけには終わらせまい、低予算なプログラムピクチュアにありがちな、単なる作品を自己完結させる為の帳尻合わせ的なシラケた作劇が目立つ作品にない、さまざまな制限があってもこれだけは自分のやりたいことをやるという意欲が感じられる作品だった。
その後監督の映画は全部観て、ありがたいことにお会いして話をうかがうこともできた(ちなみに私は映画とはまったく関係ない仕事に就いている一映画マニアなので、牧口監督にはなんのメリットもない。正直この原稿を書かせていただいている事も、身に余る大役だと思っている)。慶応大出身で映画最盛期の昭和三十年代に東映に入社した人だから、気難しいインテリだと思っていたが、待ち合わせ場所の中野武蔵野ホール前(笑)で会った直後から、マイペースで冗舌に話されるので、ちょっと安心した。それはさておき。
牧口監督は、映画を監督していた時代は短い。75年5月公開の「玉割り人ゆき」でデビューして以来、「五月みどりのかまきり夫人の告白」「玉割り人ゆき・西の郭夕月楼」「戦後猟奇犯罪史」「徳川女刑罰絵巻・牛裂きの刑」「広島仁義・人質奪回作戦」「毒婦お伝と首切り浅」「女獄門帳・引き裂かれた尼僧」、そして77年9月公開の「らしゃめん」までの全九作、約二年半だ。その前は助監督、その後はTVで「影の軍団」シリーズや「12超ワイドドラマ」シリーズ、「柳生一族の陰謀」などで、監督・プロデュースをしている。
TVより映画の方がランクは上だという偏見に基づいて言えば、一本も映画を撮れない(撮れなかった)監督が多数いる現状を考えれば、幸福な監督なのかもしれない。むしろ映画監督とは名ばかりで、講演やタレント業に精を出したり、わけのわからない企画に固執して何も撮ろうとしない御仁に比べれば、はるかに良いと思える(無論個々の事情を考えずに一概にそう言い切ってしまうのは暴論に近いが)。
ただ、現在一般に見やすい、すなわちビデオ化されている作品は、「かまきり夫人」「広島仁義」と、牧口監督の良さの見られない、平たく言えば水準以下の作品ばかりなのは不幸な事だ(「女獄門帳」の30分短縮ビデオがかなり前に出ていたという噂があるが)。知人に牧口監督の事について語る時、数々の語りたい作品の前に、知名度だけが先行しているという点だけで「かまきり夫人」の事を語らなければいけないのは苦痛でしかない。……というような事を牧口監督の前で言ったら、「結局多くの人に観てもらえた作品(ヒット作)がいいんだよ」と、サラリーマン的というか、ワンクッション置いた答えが返ってきた。
しかし実際「時代劇が撮りたくて東映を選んだ」牧口監督の作品は、現代劇は冴えない。ただし泉ピン子が狂言回しで出てくるオムニバス「戦後猟奇犯罪史」のラストエピソード、川谷拓三が大久保清に扮する話だけは例外だ。川谷拓三の演技もさることながら、ラスト、被害者の女性達の遺体が河原に並べられ、その前で川谷が号泣するシーンは、犯罪が残す傷跡を「体感」できるほど、身に迫ってくる迫力がある。
時代劇とて、必ずしも傑作ばかりではない。「徳川女刑罰絵巻・牛裂きの刑」は、長崎奉行高坂主膳(汐路章)によるキリシタン弾圧によって、善良な娘登世(内村レナ)が家族と恋人を殺されて牛裂きの刑を受けるドラマと,小悪党捨蔵(川谷拓三)が女郎を足抜けさせ、美人局をやったあげく、鋸挽きの刑で死ぬまでのドラマのオムニバスだが、牛裂き編は単なる残酷場面の羅列だけで、悪奉行に裂かれる恋人達の悲劇としてもピカレスクドラマとしてもまったく締まりのない作品で、辛うじて川谷の市井の小悪党ぶりが印象深い鋸挽き編によって作品の体裁を保っている。が、川谷がいなければ、もっと評価が下の作品になった感が強い。明治時代に異人妻として売り飛ばされた娘の生涯を描いた「らしゃめん」も、売娼のくせに少しも脱がない、一人で悲劇のヒロインになりきっている鰐淵晴子に振り回された、ある意味でババをつかまされた作品だ。
しかしだからと言って、牧口監督が三流だと思うのは、「戦争と青春」を観て今井正を三流と決めつけるようなものだ。
デビュー作の「玉割り人ゆき」は、「女獄門帳」ほど刺激的ではないが、良くできた作品である。時は昭和初期。女郎に性戯を仕込むのを仕事とする「玉割り人」のゆき。彼女はその不幸な過去と仕事ゆえ、女としてのあるゆる幸せを捨てていたが、ある日出会った無政府主義者の森(大下哲矢)に惹かれていく。にっかつ映画に出演していた潤ますみがいい。演技があまりうまくないのが幸いして、ゆきの無表情で、自己を抑圧したとりすました女と服を脱げばただの淫らな女という二面性が、自然にしみ出している。結局彼女は森と東京へ向かうが、昔女郎と足抜けして失敗、その罰としてゆきに陰茎を切り落とされ、彼女を追い続けていた六造(川谷拓三)によって森は殺される。ラスト、峡谷の中をまっすぐに抜ける鉄道の駅で佇むゆきのショットがいい。底辺で生きる人間達の姿を、抒情的に描いている。
続編の「玉割り人ゆき・西の郭夕月楼」は、ゆきの金沢出張編。冒頭、金沢に着いたばかりのゆきは、一人の老人と出会う。責め絵で現在も知られるあの伊藤晴雨(長島隆一)だ。ゆきは金沢の夕月楼を仕切る若旦那清次郎(坂口徹)と結ばれるが、晴雨は婚約したばかりの彼に、彼の為に女郎に身を落とした女お俊(中島葵)の事を告げ、その結果清次郎はゆきを置いてお俊と心中してしまう。一人金沢を去るゆきを見て、一つの地獄絵の具現化を楽しむかのように、晴雨もまた去っていく。しょせん誰とも結ばれぬ玉割り人の運命を、今回は伊藤晴雨というキャラクターを介在させる事によって、より強くアピールしている。この牧口監督唯一のシリーズ作品は、牧口監督のフィルモグラフィの中では、田中陽造の脚本にも支えられ、一番完成度が高い。何よりも、社会の底辺で生きる人間達の退廃と、それと相克する正へのエネルギーを見事に描いているのが、素晴らしい。
もう一本お勧めなのが、「毒婦お伝と首切り浅」だ。貧窮にあえぎ親に売り飛ばされたお伝(東てる美)が、市太郎(槙健多郎)、鈴月尼(橘由紀)、途中で知り合った泥棒の松助(広瀬義宣)の四人で、強盗と殺人の旅を続ける。平たい話が、「俺たちに明日はない」の時代劇版である。ポンチョ姿(?)もりりしいお伝が、馬車を駆る。銃を乱射する。「『駅馬車』に感銘を受けて、映画を志した」牧口監督の、余裕の遊びか。エスカレートするお伝たちの凶悪犯罪に、官憲は極刑で応える。仲間は全員射殺され、逮捕されたお伝は斬首刑に処される事になる。雪の中、刑場に引き出され、死に物狂いで抵抗するお伝。それを制止したのは、首切り役人の山田浅右衛門(伊吹吾郎)だ。以前売り飛ばされたヤクザに追われる自分を助けた恩人であり、最初に抱かれた男の言葉に観念し、首を斬り落とされるお伝。浅右衛門はアメリカに渡りたがっていたお伝の遺志を汲み、海の見える岬にお伝の墓を建ててやる。毒婦という言葉の代名詞のようなお伝を、ひたむきに自由を求めて(欲望的に)生きる一人の若者として描いたストーリーは、今となっては陳腐と言えなくもないが、爽快である。この作品は、「女獄門帳」や「牛裂きの刑」のサービス精神とは別に、牧口監督の娯楽映画指向を如実に感じられる好編である。
牧口監督の映画は、とりあえずお勧めの4本に限っては、低予算のエログロプログラムピクチュアという枠の中に収まらない、美しさとこだわりが感じられる。むしろ異常性愛路線を経て、ある意味でアングラの一歩手前まで到達しそうになっていた東映のエログロキワモノ映画に、大作映画や陽性の大衆娯楽に反動的に転向する前の過度期だからこそ生まれ出たのであろう、一つの映像作家としての自信に満ちた、どのような逆境にあっても映画監督は単なる義務に終わらない自分の意図する仕事を全うする事ができるという誇りを吹き込んでいる事が感じとれる。そしてそれは、最近の完成度とテンポばかりが先行する、洗練された企画ものならぬ規格もの映画には見られない、「情熱」にほかならない。
この情熱を受け止めることもできず、題名やストーリーを聞いただけで、批評家のみが賞賛するあくびの出るような名作映画と比べて蔑むような、アカデミー賞受賞作とキネ旬ベスト10映画ばかりが映画と思っているような映画ファンなら、近づかないでほしい。牧口監督の映画には、一部を除けば、観客が熱意を込めて観れば観る程、それ相応以上の興奮と感激が見えてくるはずだ。そして今も、そのフィルムにフェロモンを焼き付ける力は衰えていないはずだ。
私がお会いした時、最近観た映画で「スピード」の事を話し、そしてコンピュータと映像の関わりを牧口監督は楽しそうに話していた。「『クリフハンガー』でワイヤーをコンピュータで消していた技術ね、あれは日本の特撮映画のピアノ線を消すのにいいね」。当然と言えば当然だが、やっぱり映画が好きな人間なのだ。
牧口監督は最近はあまり撮っていないそうだが、まだそう簡単に老け込まないでほしい。こういう言い方をすると迷惑かもしれないが、最近はビデオ映画でも、エロとバイオレンスを売り物にした時代劇作品がけっこうリリースされている。是非、新作を撮ってもらいたい。絶対観に行きますよ、私。少なくとも、「女獄門帳」という傑作を観た事、それを撮った監督を(一方的ながら)知っているという、私の映画歴の最高の喜びはまだまだ続くはずだ。くどくて、エネルギッシュで、何度も観たくなる映画を撮ってください。もし牧口監督の情熱と、美しさを作り出す映像センスをこのまま眠らせ続けるのならば、私は日本映画界を憎み、呪う。
※この原稿発表の約一年後の'96年3月、ワイズ出版からシナリオ&インタビュー集「日本カルト映画全集8 女獄門帖・引き裂かれた尼僧」が発売された。また、同年8月には19年ぶりの新作長編映画「女郎蜘蛛」が東映ビデオから発売された。