'97年7月16日「用心棒日月抄」撮影見学記
'97年7月16日。夜中の3時に就寝した筆者は6時に起床すると、そのまま東京駅に直行した。
先日某誌の仕事で電話した際、テレビ朝日の連続時代劇ドラマ「用心棒日月抄」の撮影を7月1〜8日、そして7月16日に行うので、よかったらいらっしゃいと誘われていたのだ。
無論学校を卒業するときに「先輩、卒業しても遊びに来てください」なんて後輩から受ける定型のご挨拶かもしれないが、そんな事を気にはしていられない。12時から東映太秦撮影所(ここの隣に、太秦映画村がある)で撮影するとの事なので、駅すぱあとで東京から太秦(JR山陰本線)へかかる時間を3時間半と計算し、8時28分発のひかり号に乗り込んだ。11時過ぎ、京都駅へ到着。そのまま山陰本線に乗り継ぎ、太秦駅で下車。撮影所は歩いて5分ほど。京都も夏、盆地特有の蒸し暑さに生気が失われていく。
受付で「牧口組」の部屋を尋ねる。ちなみに一般人は立入禁止なので、おっかなびっくりだ。親切な応対に感謝しながら、入り口を入ってすぐ左の建物に入る。上杉組、斉藤組といったプレートがかかった部屋の中に、「牧口組」と書かれた部屋を発見。恐る恐る(実はこういった現場を訪問するのは初めてなので、色々と怖い話を吹き込まれている)部屋に入る。長机と木製の事務机、そして数人分の椅子がある部屋には四人の男性と一人の女性(進行の人みたい)がいて、一番奥に牧口監督が座っていた。直接お会いするのは、かれこれ2年ぶりか。
「あ、どうも」
相変わらず、牧口監督は腰が低いというか、応対が丁寧で紳士的だ。私が来た後に某誌の女性記者(えらい美人)が取材で入り、しばし雑談。
「今日は昼からスタジオで撮影で、あとは夜7時から撮影ね。小林稔侍さんと春風亭小朝さん、稔侍さんの娘の小林千晴さんが来ますよ」
ちょうど京都は祇園祭の最中で宿が取れないだろうから、泊まるなら東映がよく使う宿を聞いてみてくださるという。そ、そんな滅相もない。私もお勤めのある会社員ですので、日帰りです。というわけで、昼の撮影を見学して帰ることにする。
「お昼、食べた?」
ウェストサイドバッグにタオルを首に巻いたいでたちで、パイプ椅子を小脇に抱えた監督と、スタジオ内の食堂に行く。ちょうど昼時なので、おっさんがごった返している。定食も300円ぐらいと、べらぼうに安い。
「みんな大道具さんだよ」
確かにカツラかぶった役者さんは数人しかいない。そ、そんな監督、私のためにうどんをおごってくださらなくとも。え、ええ、そんな、監督に運ばせるなんて。
「東京に比べて、つゆが塩辛いでしょう」
いえ、うまいっす。そ、そんな後片付けまでしなくても、そんなことが私が。
「食器を返すところが決まっているから」
も、申し訳ございません。今日のことは、一生忘れません。
その後監督とスタジオNo.13に行く。すでに小朝さん(口入れ屋の役)が待機している。スタッフは、総勢20人強といったところ。シーンナンバーは2の1〜7あたりで、日がな寝てごろごろしているだけで給金を貰える仕事に不安を感じた又八郎が、口入れ屋に仕事を断った事を伝え、新しい仕事をもらいに来てにべもなく断られる場面(脚本・長坂秀佳)。
小朝さんは「師匠」と呼ばれ、とりあえず先に撮影開始。カツラの生え際がギザギザだと、メイクの女性が駆け寄る。牧口監督が演技指導し、助監督の若い男性がカチンコ持って走り回り、カメラマンとその助手、照明スタッフらが走り回る。全員プロフェッショナルだけ会って、監督がいちいち指示しなくても、各員がきびきびと動いている。カメラの横にはモニターが設置され、どう映っているかが一目瞭然。スタジオの奧には映像チェックのスタッフが待機し、リハーサル→本番→監督OK→映像チェックOKでシーンの撮影終了、その後アフレコという進行だ。
カメラや何台もの照明器具が入り組み雑然としたセットの中で、とりあえず邪魔にならないように後ろから覗く。「本番、スタート」。監督の声は、穏やかだ。
小林稔侍さん到着。監督やカメラマンの方に「稔ちゃん」と呼ばれるあたり、東映の大部屋俳優出身のなじみの深さが感じられる。テレビで見るより、太った感じがする。今回は見学者なので、「きゃー! キケロのジョー! サインくださ〜い!」などとは口が裂けても言えない(笑)。個人的には'77年の牧口監督の映画「女獄門帖・引き裂かれた尼僧」で、稔侍さんは主役の女郎を足抜けさせようとして見つかり、「お、俺はこいつに誘われたんだあ」と見苦しくあがいて殺されるチョイ役で登場していたので、二十年ぶりの再会? について聞きたかったが、そんな事を聞ける雰囲気でもない(涙)。
二人のからみの場面の撮影で、小林さんの髷が小朝さんの鼻に影になって映り、撮り直し。さすがプロフェッショナル、皆さん眼を皿のようにして働いている。
しばらくたって、小林千晴さん登場。口入れ屋の妹役で、奥から茶を出してきて、仕事を断って弱気な又八郎を応援する役。立ち位置から台詞を出すタイミングまで細かに指示が出され、その後撮影は順調に続く。
途中、私のカメラがフィルム巻き取りに失敗、フイルムを買いに行くことになる。外に出ると、陽射しがきつい。
@撮影所内には売っていない
A出てすぐの米屋さんにはない(店員さんは美人だった)
B近くは食堂ばかり
門を出て、踏み切り渡って、しばらく歩いたところの商店街を右に曲がり、テクテクテクテク……。ようやくコンビニを見つけ、そこでフィルムを買う。なんで撮影所なのにフィルムがないんだ! って、撮影所は観光地じゃないから仕方がないか。
戻って見学続行。折を見て、監督がいろいろと説明してくださる。
「スタジオの床に張られた板はね、『ザ・ヤクザ』を撮影した時に、スタジオ内を真っ平らにするために張ったものなんですよ」
「柱に板を打ち付けているでしょ。あれはベッピンといって、ヒビの入った柱とかもきれいに見えるようになるんですよ」
あ、本当だ。監督、為になります。そんな、お忙しいのに、私なんぞに気を使っていただかなくても。
「宵山の祭でも観に行ってきたら?」
今日は、監督のお仕事ぶりを見るためだけに来たんですから、それだけはお断りします! お邪魔にならない限り、見学させてください!
又八郎の場面が終わり、稔侍さんお疲れ。スタジオの隅に引っ込んだかと思うと、千晴さんに「ここで何を考えているのかをきちんと考えなさい」とか、演技指導している。やっぱり稔侍さんて、まじめでいい人だなあ。
牧口監督は、演技指導をして、モニターを覗き、カメラマンと打ち合わせし、台詞や動作の間合いを計り、一つどころに落ち着いていない。やはり今なお現場で働く人だけあって、動作が機敏というか、フットワークが軽い。テレビの前で最近の時代劇はつまらんとか、適当に言っている人間に見せてやりたい……というよりも、テレビの制約や予算や日程を考えずに、この監督が自由に撮ったらどんな作品を撮ってくれるだろうと、心が痛む。何をやってんだよ、私は。何もできんくせに、何でここにいるんだよ。
その後小朝さんと千晴さんの部分の撮影が終わり、昼の部の撮影が4時に終了。監督、皆さん、お疲れです。
その後監督とちょこっとお話しする。わざわざ写真撮影のために、スタジオの外に出てくださる。
「祭でも見に行ったら?」
いえいえ、私はそれより「玉割り人ゆき」('75年)とか、監督の作品ののロケ地を見たいです。「玉割り人ゆき」の郭は島原で撮影したそうだが、もう当時の面影は残っていないとのこと。ラストショットの鉄道は、トロッコ列車(太秦から山陰本線で2駅の保津峡周辺)で撮ったとのこと。よっしゃ、そこに行くか。
アフレコ室に向かう監督と涙のお別れ(監督はどう思っているかは知らないが)をし、近所のラーメン屋で油っこいラーメンを食い、太秦駅から保津峡へ向かう(駅への道に迷って体力を浪費したうえ、逆方向の列車に乗って時間まで浪費したことは省略)。
無人駅の保津峡駅(写真下)に降りてびっくり。民家が全くない! 住宅が密集している太秦・嵯峨駅からわずか一駅でこんな緑美しい山間の峡谷風景が見られるとは! 京都・太秦が東映や松竹の撮影所に選ばれているというのも、納得がいく。そそり立つような山々の間に伸びる駅と線路を見て、「玉割り人ゆき」のラスト、愛する男と未来への希望を失ったゆきが山間の駅に佇む美しいショットがまぶたに浮かぶ。さて、トロッコ列車へ参りましょう! 駅から出た私の前に、一枚の立て看板。
「落石のため、トロッコ列車は平成9年9月まで通行止めです」
鬼! その後私は京都駅まで戻り(夜7時くらい)、某大師匠から教わった古本屋街を目指して、地下鉄で四条に向かう。
……明日は祇園祭、今日は宵山祭。店は早じまいし、街には人が溢れてる。人、人、人……。ただ人の間を歩いただけで何も見つけられず、後は9時発の新幹線へまっしぐら……(涙)。
かくして京都の旅は終わりました。何もしとらん? おっしゃる通りです(涙)。